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八木沢に居る僧侶です。徒然なるままに(*^_^*)

40過ぎて秋田を離れ独り京都大阪へ。僧侶となり、八木沢へAターンした男のつぶやき。

人生は仏法・仏教そのものである

神道 キリスト教 イスラム教 ヒンズー教など色々存在しますが

私は仏弟子なので、その立場での御話しです。

 

FBページ

「喜幸山 祐恵寺」投稿より

https://www.facebook.com/yuukeizi/?ref=aymt_homepage_panel

 

人生とは大きな天井のような気がする。

大きな主柱(親、妻、夫、子供・・)に支えられ支柱、外壁
(友人・知人・・・・)がそれをさらに支えている。

それを互いに支え合っているからこそ この世に存在する。

仏教、仏法はその人の人生そのものである」

ある仏法関連の番組でこの感覚がいわゆる「悟り」であると語っていた。悟りとは思っていないが私もよく話しする言葉である。

私は今、主柱がない。支柱も外壁も有り難い御縁でたくさん備わっている。楽しく過ごせているはずのに、どこかにぽっかり大きな空虚を感じている。

特に夜、今日が終わろうとするとき
一人でいると。

主柱のいない寂しさなのは明らかである。

でもそう感じているのは
この世で 私だけではないだろう。
それを出さないのは、何かで紛らわしているからであろう。

ただ私が今 感じるのは
太くて丈夫な吊り糸が上から支えてくれていること

阿弥陀様であろう

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その脇にまた太めの糸が支えている

親鸞聖人であろう

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さらに数本の釣り糸がある

両親 祖父母であろう

 

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いつかまた
主柱ができるときがくる・・・かもしれない。

それまではしっかり吊られていることを
感じることができる。

朝また たちあがるときに。

 

 

以下、引用です。

「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
 
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。

 我なくも法は尽きまじ和歌の浦あをくさ人のあらん限りは」

"私の寿命もいよいよ尽きることとなった。阿弥陀仏に救い摂られている私は、臨終と同時に弥陀の浄土に往生させていただくが、和歌山の片男波海岸の波が、寄せては返し、寄せては返すように、親鸞も一度は浄土に往生するが、すぐこの娑婆世界に戻ってきて、苦しむ人々に弥陀の本願、お伝えするぞ。だから一人で仏法を喜んでいる人は、二人だと思ってもらいたい。二人で仏縁を喜ぶ人あれば、三人だと思ってもらいたい。そのもう一人とは親鸞だ。私が死んでも仏法は永久に尽きることがない。苦しみ、悩む衆生がいる限り仏法は永遠に尽きない。"

ameblo.jp

 

自分の思考、想い、立場で人を簡単に判断しない

 

感謝とありがとうの言葉を忘れない

より一層大事にする

 

でも結局は「自分」で見てしまいます。

 

そんな自分をちゃんと感じられるかどうかです。

 

「自分」が当然と思うとしても

相手には同じようには伝わりません。

 

そんな中で生きて行くのが

「仏法」「仏教」なんです。

 

また今日の「仏法」が始まります。

 

徒然なるままに。

 

暗闇はきっと 朝に続く

いい朝が いい日になる♪

 

 

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